やさい日記

複線的人生の創造

【読書記録】世界は贈与でできている(近内悠太著)

「世界は贈与でできている」(近内悠太著)。表現がとてもわかりやすいのに、内容が深いせいかなかなか理解が進まず二回目を読み直しています。ここで書かれている「贈与」の概念が生きていくのに大変重要な気がしています。

 

 

 

更生していきたいと思っている、宝塚市雲雀丘の大正時代の洋館「安田邸」のことを考えている中でこの本を選んで読んでみようと思いました。利回り的に考えると、修繕に億単位かかる安田邸は、まず「合わない」。資本主義的にみると、お金に換えられないから、価値がないとなってしまう。

 

 

 

しかし歴史と文化という観点で行くと価値があるもの。利回りが取れず国や市がお金を出せない歴史や文化的遺産はつぶすしかないのか。そんなはずはない、何か方法があるはずだという点で、「贈与」という仕組みについて知っていきたいと思いました。しかしそんな視点よりもっと大事な深いところに読んでいて目が奪われたのです。

 

 

 

その衝撃は、贈与が呪いになる時、という章にありました。おもに親子間の贈与についてのところでした。(お金の贈与や相続という意味ではありません)誰しも親子関係に悩むものだと思います。どんなに立派な親であろうが、どうしようもない毒親だろうが、それは同じく悩みの対象として子の前に立ちはだかるものです。

 

 

 

親と赤ん坊の関係は、親の一方的な贈与が与えられます。その一方で赤ん坊はその贈与にお返しするものは何ももっていません。いい子であろうとすること、これが親の贈与に対する精いっぱいのお礼なのです。また一方でそのお礼をしないと愛が与えられないという不安に陥る。それが親子間の贈与の正体だというのです。

 

 

 

親の贈与が贈与の形をしているにもかかわらず偽善である場合もあります。私はわが子を愛してわが子のためにやっているというていで、本当は自分自身の利益が見え隠れする場合です。息子に中学受験をさせようとやっきになる、それは息子の将来のためでもあるのですが、「優秀な息子というブランドを持つ自分」という隠された欲望もある場合もあるでしょう。

 

 

 

親がそれに自分で意識をしているのか、無意識で自分は子供のために一生懸命やっている!というのでは、子のその贈与に対する受け取り方は大きく変わってくる。

 

 

 

だから親は「あなたのことを思って」などと決して言ってはいけないのです。むしろ「私自身が優秀な息子というブランドがほしいからあなたを難関中学校にいれさせるのよ」というほうが、よっぽど子にとってはいいのだろうと思います。なぜなら、子は「はい。それはあなたの希望ですね。僕の希望は今の友達と一緒に地元の公立に行って遊びたいです。」という余地があるから。

 

 

 

しかし「あなたのために、お父さんが働いたお金で、塾に通わせてあげているのよ」なんて言っていたらもう悲惨です。子はその恩着せがましさに押しつぶされながらも、これを拒否したら愛されない、僕はダメな子だ、両親から捨てられる、そんな持つ必要のない悲壮感で受験勉強をしてしまう。精神崩壊しますよね。

 

 

 

贈与が呪いになるというのはこれが一つの例だと思います。偽善の贈与、交換の意図が見え透いたものは贈与とは呼べない。子は親の苦労を知ってしまっては、その一方的な贈与の負い目に耐えられないのです。

 

 

 

ここから贈与は贈与と知られてはいけないという原理が導かれていました。これは深いです。この本は何度か読み直して自分の腹に収めていこうと思います。それくらい深く大切なことが書かれているように思います。

 

 

 

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