やさい日記

複線的人生の創造

恵陸さんの巨大白菜をいただいて思ったこと

以前も書いたことがあるかもしれませんが、私の文芸のお友達に恵陸さんという方がいらっしゃいます。主に川柳を詠まれたりエッセイを書かれています。その川柳やエッセイを読ませてもらったりしながら交流を深めております。

 

 

 

恵陸さんは畑もやっていらっしゃって、季節ごとに野菜を送ってくださいます。先週末にも届いたのですが、段ボールをあけてたいへんおどろきました。白菜の大きさです。とにかくでかい。スーパーにならんでいる一玉が白菜だと思っていたのですが、もはや白菜とは呼べないような大きさ。

 

 

 

具体的に言うと一玉がスーパーのものの2~3倍くらいなのです。こんなに育つのか!という驚きがすごかった。逆にスーパーに出ている白菜はいったいなんなんだ?という疑問すら湧くくらいのもの。月並みな言葉かもしれませんが、愛情かけて育った白菜という感じがします。

 

 

 

「このサイズは市場に出ることはまずないですよ。」と恵陸さん。個人の趣味の野菜作りだからできたとのこと。このサイズを流通させようとすると梱包内の無駄なスペースができるなど輸送コストがかかりすぎものすごく値段の高いものになってしまう。また少人数家族が多いので冷蔵庫に入る(場所を取らない)というものが求められているというのもあるでしょう。

 

 

 

この恵陸さんの白菜からも市場経済のおもしろさがあるなと思うのです。市場にある=価値がある。市場にない=価値がない、という単純な公式はあてはまりません。恵陸さんのジャンボ白菜は市場に出ないものですが、明らかに価値がある。無農薬、新鮮、作り手の愛情がこめられたおいしい白菜。ただ巨大化しすぎて市場には受け入れられない。もちろん恵陸さんは市場にだそうとして作っているわけではないので、その点ご本人の中で矛盾や不合理だとかはないのですけどね。

 

 

 

このような市場に出てこないもののを価値をいただけるのは、人とのつながりや縁があるゆえということでしょうか。まさに前回のブログで紹介した「世界は贈与でできている」の世界観なんだと思うのです。資本主義・市場経済の隙間に存在する価値がある。その価値の存在に気づく幸せ。恵陸さんの白菜で改めて気づかせてもらいました。先日から書いている「安田邸」も資本主義の隙間に存在する、豊かさを感じさせてくれるはずの未来の価値なんです。

 

 

 

ちなみにピエンロー鍋を作って2晩かけましたが、まだ巨大白菜は食べきれていません。ようやく市場にある白菜の1.5倍くらいになりました。まだまだ巨大白菜を楽しむことができそうです。

 

 

 

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