今朝の産経新聞。「モンテーニュとの対話」というコラムに思わず膝を打ちました。
「神事とは生者だけのものではない。継承してきた死者たちのものでもある。」
「生者のおごり」
私がうんうんと頷いたのはコラムの本旨よりも枝葉末節の部分なのでコラムの内容については触れません。いま、雲雀丘・旧安田邸の更生をあれこれ考えたり、仲間と話をするなかでずっと心に残っているのが、生死の問題です。
先日、川柳人(柳人)の恵陸さんにお会いしました。その時にやはり生死の話になりました。人間と建物と会社、それぞれ寿命が違うから難しい、と恵陸さんが言われました。これもなるほど、そうだよなあと思った次第。
いまいろいろと目にする課題は、「生者」である私たちだけの視点で考えてしまいがちなのではないか、と改めて思いました。雲雀丘の旧安田邸にしても、そこで暮らしていた方々は亡くなり、それでも建物は残り、朽ち、死を迎えようとしています。
この朽ちてまもなく死を迎えるこの建物をどうにかしようと生きている人間でああでもない、こうでもない、としていること自体が、実は「生者のおごり」であり、「継承してきた死者たち」を完全に忘れ去った行為なのかもしれないと感じました。
雲雀丘・旧安田邸は、所有者であった安田敏子さんが亡くなられる際、宝塚市への活用を願い、宝塚市はそれに基づいて譲り受けました。それから約15年、「生者」の視点だけ(お金の問題も含め)で議論をしてきた結果、なにも手を打つことが出来ず、いままさに朽ちかけようとしています。
朽ちかけている建物、かつてそこで暮らしをしていた「死者」は、いまのこの事態を見たとき、何を感じ、何を思うのでしょう。残念、口惜しい、どうして、市へ託すには無理があった、と思うのか。それとも、いや自然の流れ、これはどうしようもなかった、もうみんな頑張ったからよしとするか、など肯定するのか。
生者の頭で考えるだけではなく、死者たちのものでもあったということを、どこか心にとどめておいて、旧安田邸だけではなく、色んなものごとに向き合っていけたらいいのかなと思います。
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春だから、新しくお習字でもどうですか?
しばらくぶりに再開するのも楽しいですよ。