やさい日記

複線的人生の創造

【読書記録】3つの世界 山口揚平著 プレジデント社

ずっともやもやしていたことが晴れたような気がします。キャピタリズム(資本主義)に恩恵を受けています。しかし社会を支えているエッセンシャルワーカーの賃金が低いのに、富裕層は余ったおかねを株式や不動産に変換しおかねを無意味に増やしている・・・など矛盾もたくさん。そんなキャピタリズムの現実にわたしたちはどうしたらいいんだろうということに、ずっともやもやしていました。

 

 

 

わたしたちが基本のOSとして組み込まれているキャピタリズム(資本主義)、ヴァーチャリズム、そしてシェアリズムの「3つの世界」がある、とこの本では定義しています。まずこの分類に納得。この分類して定義するということで、物事がクリアになってわかりやすくなるなと感じました。『なるほど、自分のもやもやは、3つの世界を分類できず、頭の中でごちゃっとして不安になっていただけなんだ』と。

 

 

 

ことばで認知をするだけで、物事ってわかりやすくなるし、それだけで解決の道がみえるんですね。世界が違うとわかっていれば、自分の頭の中も整理出来て、立ち位置も考えやすくなります。『いまはキャピタリズムの概念にとらわれすぎているな』『シェアリズムもいいけど、いろんなタイプの人とかかわるのもしんどいな、だからおかねを使って解決しよう』とか。

 

 

 

この「3つの世界」を通じて、自分の認知を高めていき、目の前の事象への解像度をあげていく。そうやって意識をしていくことで、未来への漠然とした不安に無駄に悩むこともなくなるのでしょう。ひとつの世界に疲れても、他の世界へいって、また戻ってくる。そんな行き来をすることで、しなやかに生きていけばいいのだろうと感じました。

 

 

 

おかねという人間が作った概念になぜか縛られすぎています。日本円、米ドル。世界が変わればそれらは通用しないというのは当然のこと。もちろんキャピタリズムが人生を占める割合は現時点では多いのが現実。しかしそれが別の世界では虚構だとわかっているだけで、これから自分はなにをすれば幸せにいきていけるのか、行き方がわかってくるのでしょう。

 

 

 

おかねに疲れたら、シェアリズムに行って人とのつながりをたのしみ、自分ができるサービスを提供して野菜をもらえばいい。シェアリズムのしがらみに疲れたら、またキャピタリズムに戻り稼げばいい。おかねが余れば若い世代がこれからどんどん構築していくヴァーチャリズムも体験してみればいい。世界はきっと、楽しい。そんな目を開かせてくれた一冊でした。

 

 

 

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書作品の詩文選びと作品づくりの流れ

書をやっていると1年に何度か展覧会に作品を出す機会があります。コンクールのような展覧会や、所属する書道会での展覧会。二つは違いもありますが、ことばをえらび、書にするということついては、同じ性質ともいえます。

 

 

 

書道の展覧会ではジャンルがあります。漢字、かな、近代詩文書篆刻、など。私がよく出すのは漢字と近代詩文書の2ジャンルです。私のこれまでのコンクールの受賞経験を考えると、漢字より近代詩文書の方が得意と言えます。

 

 

 

近代詩文書。文字通り近代の詩や短歌、俳句、ことばを書にするものをいいます。この詩文を選ぶ作業が頭を悩ませることもあり、それでも楽しいものでもあります。コンクールにおいては、見栄えのいい字をうまく配置するというテクニックも必要です。(それが書の本質かといわれればそうではないかもしれません)

 

 

 

私が自分で短歌を詠んでみようと思ったのは、自分のことばを書にしていきたいという思いがあったからです。誰かの書いたことばが心に残り作品にするのももちろん素敵です。しかし自分のことばであれば書にしたときのエネルギー量が多くなるのではないかと思うのです。

 

 

 

そんなことで短歌教室に通い、少しずつ自分の歌を詠むようになってはいるものの、なかなか書作品にするレベルではないなあと思っています。もう少し自分で納得できる歌が詠めるようになれば、自分の書にしてみたいと思います。

 

 

 

そろそろ毎日展の詩文を決定しないといけないので、ネットで調べた庄内の「犬と街灯」というZINEや歌集などを取り扱ってられる本屋さんに行ってきました。一日店長歌人の牛隆佑さんに相談にのってもらい、牛さんの歌集ともう一つ別の方のZINE風の作品集を買いました。(これがかなり凝った製本でまたおもしろい)

 

 

 

じっくり牛さんの歌集を味わいながら、毎日展の題材をどの歌にしようか・・・と考えています。素敵な歌、これはいいな!と思う歌と出会い、ハッとする。その時間がとても豊かで楽しいです。まだ一つに絞り切れていません。

 

 

 

詩文を選んだらいざ紙に向かい格闘します。最初は草稿レベル。草稿で構図や字の配置、字形、盛り上がりをどこにするか、など考えながら、何枚か下記進めていくことになります。土曜日の書道教室(川西のはじまりの杜)のあと、生徒のみなさんがお帰りになったら草稿づくりからやっていこうと思います。

 

 

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【読書記録】わたしのコミュニティスペースのつくりかた

雲雀丘・旧安田邸の保存活用を考え動き始めてから初めて気づいたことがあります。建物は人がいて建物として成り立つということ。もう当たり前と言えば当たり前なのですが、そんなことすら知らなかったわけで。保存するには、人間が活用していかないと、保存する意味もなくなってくるのです。

 

 

 

場をつくる。そこに人が集まることを考えなければいけません。色んな人に相談をしたり話をするなか、一冊の本を見つけました。「わたしのコミュニティスペースのつくりかた」です。この本は実際に私設図書館のみんとしょ発起人と、建築家が共同して書かれたものです。

 

 

 

場づくりはハードとソフトの面がまず書かれていたのが印象的でした。建物を買ったり借りたりして始めるのがハード。特定の場所にこだわらずイベント的にやるのをソフト、そのように定義されていて、まずはソフト面から始めることをおすすめすると。確かに経験がないのに、大きな建物を購入したり運営したりはハードルが高い。

 

 

 

場づくりというとどうしてもハードばかりイメージしてしまいますが、いまはオンラインでも場をつくることができます。そういえば私の書道教室もいきなり建物を買って始めたということはありません笑 場づくりを続けれいればファンが自然とできて、その人たちがハードの場に来てくれるとも書かれていました。

 

 

 

ほかにも地域の文化複合施設をつくるというプロセスもすごく参考になりました。印象的だったのがリーダーが率先してアイデアを出してそれを実行していること。これも当たり前といえば当たり前なのですが、どうしても自信がもてず、どうしよう?みたいに仲間に聞いてしまうことがあります。

 

 

 

会社と違ってプライベートの時間で仲間も協力しているだけというスタンスですから、いや自分で決めなよって思うわけです。自分に実績がないとそういうふらふらした行動になってしまいがちですが、この筆者は一つ一つ自分でアイデアをだし、実行し、修正していっていました。また一から運営していくまでのプロセスが順を追って書かれていて、また収支計画も載せてありそれもなるほどと思わせるものでした。

 

 

 

ハード面としての旧安田邸は朽ちておりこれをハードとして再生するのは難しいでしょう。ソフト面で何ができるか。それを考えたとき「記憶として遺す」に舵を切ろうと思いました。場づくりの経験がない私にとってはまずはソフト、記憶として遺すという動き方をこれからしていこうと思います。

 

 

 

 

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「やさいラジオ」も配信しました!お聞きいただければうれしいです。

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人と建物の寿命が違うからややこしい

今朝の産経新聞。「モンテーニュとの対話」というコラムに思わず膝を打ちました。

 

 

 

「神事とは生者だけのものではない。継承してきた死者たちのものでもある。」

「生者のおごり」

 

 

 

私がうんうんと頷いたのはコラムの本旨よりも枝葉末節の部分なのでコラムの内容については触れません。いま、雲雀丘・旧安田邸の更生をあれこれ考えたり、仲間と話をするなかでずっと心に残っているのが、生死の問題です。

 

 

 

先日、川柳人(柳人)の恵陸さんにお会いしました。その時にやはり生死の話になりました。人間と建物と会社、それぞれ寿命が違うから難しい、と恵陸さんが言われました。これもなるほど、そうだよなあと思った次第。

 

 

 

いまいろいろと目にする課題は、「生者」である私たちだけの視点で考えてしまいがちなのではないか、と改めて思いました。雲雀丘の旧安田邸にしても、そこで暮らしていた方々は亡くなり、それでも建物は残り、朽ち、死を迎えようとしています。

 

 

 

この朽ちてまもなく死を迎えるこの建物をどうにかしようと生きている人間でああでもない、こうでもない、としていること自体が、実は「生者のおごり」であり、「継承してきた死者たち」を完全に忘れ去った行為なのかもしれないと感じました。

 

 

 

雲雀丘・旧安田邸は、所有者であった安田敏子さんが亡くなられる際、宝塚市への活用を願い、宝塚市はそれに基づいて譲り受けました。それから約15年、「生者」の視点だけ(お金の問題も含め)で議論をしてきた結果、なにも手を打つことが出来ず、いままさに朽ちかけようとしています。

 

 

 

朽ちかけている建物、かつてそこで暮らしをしていた「死者」は、いまのこの事態を見たとき、何を感じ、何を思うのでしょう。残念、口惜しい、どうして、市へ託すには無理があった、と思うのか。それとも、いや自然の流れ、これはどうしようもなかった、もうみんな頑張ったからよしとするか、など肯定するのか。

 

 

 

生者の頭で考えるだけではなく、死者たちのものでもあったということを、どこか心にとどめておいて、旧安田邸だけではなく、色んなものごとに向き合っていけたらいいのかなと思います。

 

 

 

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JR畝傍駅の貴賓室が取り壊しの危機に

昨日の産経新聞夕刊。JR畝傍駅の貴賓室が老朽化で取り壊しの危機にあるとありました。

 

 

 

昭和15年に橿原神宮一帯で皇紀2600年の奉祝行事があり、JR畝傍駅はその玄関口となったそうです。皇室が休憩されたのがその貴賓室でした。昭和34年には今の上皇ご夫妻も結婚報告で神武天皇陵を参拝された際にも、この貴賓室が使用されたとのこと。

 

 

 

JRは駅舎のコンパクト化を図っていくなか、この建物もその対象に。JRは橿原市に無償譲渡を持ち掛けますが、市はコスト面から拒否をしたそうです。

 

 

 

現在陛下や皇族の方が橿原神宮神武天皇陵を訪問される際は、近鉄電車のお召列車を使用するようです。ということはこのJR畝傍駅の貴賓室を今後皇族の方が使われることはないのでしょう。

 

 

 

建物の価値、価値があると思われる建物の老朽化。それを維持管理修繕するコスト。残る建物と解体される建物の違いはなんなのか。遺したとしてどのように活用するのか?それを維持するコストをどうやって賄うのか。雲雀丘の旧安田邸も同じ構図の課題です。

 

 

 

産経新聞は「市の判断は重い」と結んでいました。確かに日本という国の地方行政を預かる市がなんとかすべく考えるというのは大切なことだと思います。しかし市を頼りにしている今の日本や日本国民の意識にも問題があるのではないかとも感じます。

 

 

 

人口減少、税収低下。市がコストをかけて運営していくにも限界があります。市が負担していかないといけないのは歴史的建築物だけではないからです。となると残したいのであれば、または残すべき価値があると判断するならば、民間が資金と知恵を出し合っていくしかないのかも。

 

 

 

なにがなんでも残すことが善なのか。人々の記憶に残すのも一つかもしれません。建物がなくてもそこで当時皇族の方が来られた事実は消えることはありません。

 

 

 

取り壊される近代建築を仮想空間にまとめて残して体験できるようにする、なども一般的になっていけばいいのかな。それにしてもこれは日本全国、あらゆる自治体や地域住民らの間で起きている課題だと思います。

 

 

 

貴賓室の老朽化がもう修繕不可能なところまで来ているのか、いまならまだ修繕出来て間に合うのか、それは一つの判断材料になるのかと思います。もし修繕可能な状態であるのであれば、保存していく方向を模索していってほしい気もします。

 

 

 

↓春が近づいています。書道教室の体験もお待ちしています。

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やさいラジオを始めました

ご無沙汰しております。

 

 

 

急に思い立ってラジオを始めてみました。

 

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ひとまずプロローグと言いますか、第1回目の予行演習的な感じで配信してみました。インスタで告知したら意外にも聞いてくださる方がいらっしゃって、メッセージや直接会ったときに感想を言ってくれたり。純粋にうれしいですし、たのしいです。

 

 

 

昔の友人からは「声、変わった?」という反応がありました。老けただけかな?とも思うのですが、こんな感じの声になんですよね、いま。

 

 

 

もしよければ聴いていただければうれしいです。このやさい日記は文字で、やさいラジオは声なので、また印象も違うのかもしれません。

 

 

 

道教室も生徒募集中です。

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あなたは何のために書をやっているのですか?

価値ある建築物の活用を語る会と題して、建築や左官、材木を生業にしている仲間といろいろと語り合ってきました。

 

 

 

表面的、具体的な話というよりも、根底というか哲学っぽいというかそういう話でクールにでもハートは熱く盛り上がりました。生業は違えども根底にある思いがそれぞれに見え隠れしていた空気が心地よかったのだと思っています。

 

 

 

昨日印象に残った一つは人間を高めるということがあまり語られなくなっている今という話でした。左官の方がお弟子さんには技術を高めることも大事だけど、人としてどうあるかのほうが大事という話をされていると聞いて、私も膝を打ちました。

 

 

 

書の世界でも技術だったり芸術だったりという流れが主流。書は人なりと語られなくなってきている印象があります。書は修養であり自分を磨く手段であったはずです。戦後や高度経済成長の影響なのか、師も弟子もそんなことを求めなくなってきたのでしょう。

 

 

 

そもそも師と弟子という概念すら薄くなってきています。先生と生徒という位置づけですね。もちろん生徒側も書は生活ではなくあくまで趣味であり、先生側も生徒の人生を預かっているほどのおおきな責任をもっていないということもあるでしょう。しかし一番考えられる理由は、書がビジネス(おかね)に置き換えらざるを得なくなった結果なんだろうなと思います。

 

 

 

以前も書きましたが、先生側は生徒(顧客)獲得のために、わかりやすいメリット、「字がうまくなるといいことありますよ」という誘い文句になってしまう。生徒側は技術、「字がうまくなる」「いい字がかける」ことのメリットにしか目がいかなくなり、求めることは技術(スキル)のみになってしまう。。需要と供給が上っ面で成り立ってしまっているのが現状ではないかと思います。

 

 

 

改めて私の思いは、スキルなんてどうでもいい、人間を高めること。そのために書をやりましょうというのが本音です。うまくなろうなんていうこと自体意味がない。激しいことばを使うなら、うまくなろうって思い自体がろくでもない。と自分を戒めています。人として大切なことを実践していくために書の稽古時間や人とのかかわりを糧にする。そこを真の目標にしたいと私は思っています。

 

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