やさい日記

複線的人生の創造

歴史と文化とおかねについて感じたこと

昨日は中国書の歴史講座を受けてきました。その雑談の中で、書が商品として売買されたのは明代だというお話がありました。書を売って生活をする専業書家が現れたのもそのころだと考えられているそうです。逆に言うとそれまでは商品としての価値はなかったとも言えます。

 

 

 

書聖とよばれる、書の歴史の中でのスーパースター王義之は4世紀の東晋時代の政治家です。王義之の書はのちの唐の皇帝・太宗がほれ込みます。特に名作としてひそかに有名であった「蘭亭序」を自分のものにしようと、持ち主のところにスパイを送りすっかり油断させて奪い取ってきたという逸話もあります。

 

 

 

太宗は王義之の書をすべて自分の死とともに墓に収めてしまい、王義之の直筆は現在残っていません。しかし太宗がほれ込み、墓に一緒に埋葬してしまったこと「幻の書」であるからかもしれませんが、その王義之の書の価値がどんどんとあがっていくのです。(もちろん直筆は残っていないにもかかわらず)

 

 

 

太宗のすごいところは、唐の時代の名筆たちに、王義之の書を写し取らせたことでしょう。簡単に言えばトレッシングペーパーで籠字をつくり、その枠のなかを塗っていくという手法。これが現在にも残っているので、王義之の書もどきが存在し、それを空海はじめ現在の私たちもがお稽古として学んでいるのです。

 

 

 

話がそれましたが、書の価値のお話。明代になって商品として売り買いがされたのですが、それよりはるか昔の唐の時代、あるいはそれよりもっと以前から、王義之の書には価値があったわけです。価値を認める人が多かった。しかし金銭的な売買となるには、それまで長い時間がかかったわけです。

 

 

 

お金に変換されない価値、交換することのない価値が、やがて商品としてお金に変換されていくものもあるということですね。おもしろいですね。今の時点で文化や歴史というのはお金に換えることが社会的にあまり認知がされていません。拝観料、入場料というのは歴史や文化のお金への変換ともいえるのでしょうが。

 

 

 

とはいえ歴史や文化がお金に変換されればいいのかというのもまた違う気もします。結局のところ歴史や文化というのは心の豊かさであり、その場にいること感じること自体に「自分が」価値を感じていればよいわけで、お金というものに変換される必要はないのかもしれません。

 

 

 

しかしお金が存在しないとできないことがたくさんあります。歴史的建築物ならお金がないと補修もできないわけです。補修してもお金が生まれるわけではないのが今。これが50年後、100年後、その価値がなんらかの指標で現れる時代がやってくるのか。そういう時代をつくっていくのか、想像すると楽しいなと思います。

 

 

 

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