やさい日記

複線的人生の創造

学びが消費されている時代の書道人口の減少

ユネスコ無形文化遺産登録に、日本として「書道」が選定されたと報道がありました。書が自分の生活の一部としてある身として、いいきっかけになればと思います。

 

 

 

新聞のなかで軽く驚いたことがありました。年に1回書に触れた人数が、平成22年530万人。それに対し令和2年には220万人と激減しているというのです。ええ、そんなになんだ。それほどまでに書に触れる機会が減っているのかと。

 

 

 

書に対する魅力のアプローチの仕方が時代に左右されてしまっているからだと思うのです。学びというものに対する社会の流れに飲み込まれてしまい、書の本当の魅力が伝わっていないのかも。

 

 

 

学び。学びが単なる「スキル」として消費されているとよく言われますが、まさにそのとおりだなと思うのです。すべて所得をあげることにつながり、所得をあげるために学ぶ。というのが今の流れ。大学進学も就職に有利とか偏差値高いと収入が高いからという理由から進学塾に行くわけです。(まあそれは昭和戦前もエリート家庭はその傾向だったから一概に今は、とは言いきれない)



 

 

 

学びが手段になっている。でも本来学びは所得向上のために使うものではなく、結果として学びが活きるということだと思うのです。その逆転現象に書という学びも飲み込まれてしまっているのではないか。

 

 

 

スキルとしての書は、「書道教室に通う」→「字がきれいになる」→「人からちょっと信頼がたかまる」→「所得があがる」という方程式になると思うのですが、これ、弱いですよね。最終の「所得があがる」に至るにはちょっと無理がある。要するに書をやっても所得があがりづらい、もっと他のことをしたほうが所得アップにつながる。

 

 

 

そうかんがえると、「字がきれいになる」というアプローチを書道がしている限り、所得アップという「お金」優先の価値観のなかに埋没してしまうのだと思うのです。少なくとも書の役割は「字がうまくなる」ではなかったはず。

 

 

 

では学び、教養としての書というアプローチにすればいいのかというと、これもまた大多数には響きにくい。だから入口は「字がうまくなりますよ」というところから入っていき、徐々に教養としての楽しみを伝えていくというステップにならざるをえないのでしょう。

 

 

 

純粋に教養を楽しむ大人(要するに暇人ともいえる)が増えていくのが理想です。これは学校教育や進学塾では担えない。書塾をやっている者が、もっともっと本当の学び、哲学や思想、歴史、芸術を深めながら書をかき、それを楽しんでいる姿をつたえていくことしかないのだと思います。

 

 

 

お金の教育が最近よく言われます。しかし小手先の金融教育ではなく、お金を自分の人生に活用する思想(お金の哲学)をまずは学んでいかないといけない。お金をたくさん増やしましょうではなく、お金をどう活用して自分を伸ばし社会と接していくのか。その思想がないから、学びが単なるスキルとして消費されてしまうのではないでしょうか。

 

 

 

お金を増やすためだけの生き方以外の価値観のなかにこそ、学びの本当の楽しみがあるということ。これを大人は真剣に伝えていく必要があると思います。

 

 

 

www.kusunoki-shodo.com