やさい日記

複線的人生の創造

漢字の発生から美文字についてかんがえてみた

きれいな字とはなんでしょうか。「この人の字はきれいだな」と思われる人の字は、たいてい多くの人が「この人の字はきれいだな」と思うことが多いです。きれいな字というのは、ある程度共通しているのです。

 

【美は万人に共通する】、この法則もよく考えると不思議ですよね。どこからその感覚は生まれるのでしょうか。例えば初めて漢字を見たであろう弥生人と現代人の、きれいな字の感覚というのは同じなのでしょうか。

 

最近、中国の書の歴史講座を受講しています。そのテキストで文字(漢字)の発生で筆者はこのようなことを書かれていました。文字は絵から生まれたと思われているが、数の概念を表現することから発生してきたのではないかと。

 

牛25、布100などの取引において、記録しなければ覚えづらい、または勘違いでトラブルになる、そういう必要性から数を文字で表現し、合わせてその数の主体(例えば牛、布)をわかりやすく図や絵のようにして表現したことから発生したのではないかということでした。

 

伝説では漢字を発明したのは蒼頡(そうけつ)。紀元前4500年くらいの人で、これまた伝説上の皇帝である黄帝に仕えたとされています。このように一人の人間が漢字を発明したと伝承されるということは、漢字の発生がすごく急スピードであったとも考えられます。

 

その急速に漢字が誕生から普及迄至ったということが、取引に必要な数から始まって、そこから連鎖でいろんな漢字が作られていったということの証明なのではないかとの話でした。

 

このように仮に数の必要性から始まった符号である漢字が美になっていったというその流れはおもしろいですよね。不思議です。なぜ人の美意識を漢字そして書が刺激したのでしょうか。

 

西田幾多郎の「善の研究」をわからないながら読み続けています。今、3回目に入っているところですが、とても難解です。例えの中で美術家がちょくちょく出てきます。

 

「美術家は斯くの如き直覚の最もすぐれた人である。彼らは一見、物の真相を看破して統一的或る物を捕捉するのである。彼らの現す所の者は表面の事実ではなく、深く物の根柢に潜める不変の本体である。」

 

美術家は表面ではなくもっと奥の深いところにある一つの物を捕まえて表現するということです。そこからすると、もっと奥にある深い一つのなにものか、それが美なのだと考えられます。

 

それは美術家だけでなく、あらゆる人間の根底に横たわっている何かが刺激をされる、その刺激されるものが美の本質だと考えられます。だから漢字でも美しい字はみんなに共通して美しいと感じられるのかなと思います。

 

字がきれいになるというのは、表面的には技巧であり、練習であるのでしょうが、人間が本来持っている根底、本体をしっかり捕まえてみようとする作業のことかもしれません。

 

なんだかまとまりがなくなりましたが、美しい字というのは共通している、共通しているというのならば、誰しもが追究することができるんじゃないかな、という私の意見でした。ちょっと堅苦しい話でしたか?

 

物の本質を捕まえようとすること、そして本当の自分を思い出す作業こそが、書なのだと思います。

www.kusunoki-shodo.com