やさい日記

複線的人生の創造

出光佐三に学ぶ独立と自由

久しぶりに日本史の話題も。図書館で出光佐三の伝記を借りて読んでいます。

【評伝 出光佐三 士魂商才の軌跡 高倉秀二 プレジデント社】

出光佐三は今の出光興産の創業者です。時代は昭和戦前から戦後。

 

出光佐三を初めて知ったのはもう15年くらい前のこと。寺子屋モデルの代表の山口さんが関西でもされていた偉人伝の講座に参加したときでした。その当時私はまだ商売は金儲けでありオーナーの私利私欲ではないのか、という批判精神を持っていました。

 

その講座で出光佐三が紹介された時、「黄金の奴隷たる勿れ」や、敗戦後わずか2日目の訓示「愚痴をやめよ、世界無比の三千年の歴史を見直せ、そして今から建設にかかれ」などが大変印象的でした。国を思い、人を思い、信念を貫く人間が商人の世界にいるとはと大変驚きました。その時に商売=金儲け=悪、というのは自分の誤解かもしれないと思ったのです。

 

急に最近出光佐三の伝記を読んでみようと思ったのです。先日も書きましたが複線的人生を極めたいという目標のなかでは、経済の中にどっぷり入った生き方をしないといけません。理念のない金儲けに走るのではなく、その事業を行うことによって自分も、周りも活き活きと生活し、自分も社会も国家も成長すべきだと思うのです。

 

偉人から学び自分はどうありたいのか、どうあるべきなのかを模索したい、そんな思いがあったのかもしれません。その時は出光佐三を読もうとふっと思っただけなのですが、その理由を考えるというこういう背景だったのかもしれません。

 

もう生き方、ことば、すべてにおいて感嘆しかないのですが、私がとても強く印象に残っているエピソードを紹介したいと思います。出光佐三が創業10年、37歳ころの話だそうです。

 

佐三は店員を家族、子のように思い、接してきていました。いわゆる家族主義の信念のもとです。一方で家族主義の弊害は、店主の権威や庇護のもとにいあることによって、個人の意思や人格の独立性・自律性がさまたげられるのではないか、という点です。

 

佐三自身は店主として独立したけれども、店員の独立はどうなのか。それを自問自答続けてやっと気づいたのです。それは独立といっても佐三も含めあらゆる人間には制限や成約が存在する。日本国民は日本の法に背くことはできないし、歴史的な道徳も守らないといけない。

 

つまり独立や自由というのはある範囲内の独立であり自由である。出光が国家社会のために働くということは、出光の主義方針のなかで働くことも同じこと。店員はその主義方針のなかで最大限の独自性と自由があればそれでいいのではないかということでした。

 

この後佐三はそれぞれの持ち場で全権をあたえ、その範囲の中で独立させ、自由に仕事をさせることにしたのです。店員の自主的な判断や人格を尊重して権限の規定や罰則も作らなかったようです。

 

私は会社員というのは奴隷のようなものだ、自由がない、独立して自由になりたいと思っていました。しかし組織下にいても自分の意識次第では独立した自由な存在になれる。自分が独立した自由な存在だと思わず、指示や命令されて依存の上に生きながらえているなら、それは奴隷と変わらないわけです。

 

自身の境遇において独立や自由を感じて行動できなければ、組織から出て独立したとていつまでも何かにおいては制約を受けた奴隷のままです。もちろん組織のオーナーのタイプにもよるかもしれません。しかし今ある自由を感じられなければ、そしてその自由を活かして生きなければ、いつまでたっても自由や独立は手にいれらないのだと思いました。

 

なあなあの依存。ずぶずぶの関係。これを断ち切って自分に誇りを持ち意識の上で独立する、これが大事なんだろうなあと思ったのです。なお、百田尚樹さんに「海賊と呼ばれた男」という出光佐三をモデルにした小説があります。佐三についてわかりやすく知りたい方はぜひこちらを読んでみてください。

 

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