やさい日記

複線的人生の創造

雲雀丘でも開催されていた「南一会」 小林一三らによる池田の画家・樫野南陽支援

小林一三は池田の画家・樫野南陽を支援していました。パトロンと文化の関係に興味があって、逸翁美術館に隣接する池田文庫に行って、いろいろと調べてみました。阪急文化研究年報という雑誌があり、そこに伊井春樹氏が「樫野南陽の南一会始末記」という論説を書かれていました。

 

 

 

南陽画伯を池田の有名人にしてあげ度い」と逸翁が支援をしたのは、逸翁自身が文化的支援を自己に課していて、その勤めを果たすためだったのが動機として考えられます。

 

 

 

その「南一会」第1回は昭和20年4月1日、雲雀丘にある南喜三郎氏(宝塚ホテル創立者の一人)別邸にて行われたのです。会員5名。月会費50円、うち200円が南陽画伯の手取りとなり、残り50円が会の雑費として使用されたようです。そして南陽画伯は全員分の小作品を毎月制作してもってくるという約束でした。

 

 

 

5人のパトロンで分担して南陽の安定収入を支え、その対価として作品を受け取るという交換のやり取り。そして5人が受け取る作品はくじ引きで選んでいたようです。なかなか民主的なのも興味深いですね。

 

 

 

毎月幹事がかわり、幹事邸にて開催。終戦間近ということもあり、大阪空襲など文化を謳歌するには大変な時節だったと思うのですが、定期的に会合を重ねていきます。さらに面白いのは南陽画伯は人間はいいのだけれども野心がなくて傑作がなかなかできない、もっとがんばれ、みたいに逸翁がぼやいているのです。

 

 

 

それでも会の中である作品を入札にして購入者を決めたみたいな記述もあったので、みんながおおおーって作品が出来てきたときは、くじ引きでもらうのではなく、入札形式にしたのでしょう。

 

 

 

途中メンバーの加入や欠席などがあり、また阪急百貨店で個展を開いてもらったりしながら支援が続けれられ、昭和28年11月7日第36回が南一会の最後ということになっています。逸翁は「人間が純真だからその心持ちだけでもよい絵がかけそうに思ふ・・・」と南陽画伯に期待し励まし池田の有名人にと支援してきたのでしょう。

 

 

 

南陽画伯の思いや言葉は特に紹介されていなかったのでわかりませんが、毎月毎月小作品とはいえ5,6作品を持ち込むのは大変だったでしょう。パトロンたちにイマイチな顔をされたり批評されたりするのはなかなか胆力いるでしょうね。

 

 

 

いま、雲雀丘にある安田邸を残して活用していきたいという問いを私は投げかけています。雲雀丘を舞台にこのような文化支援サロンがはぐくまれていた歴史がとても興味深い。安田邸が改修活用できるのであれば、そのような文化的なサロンを復活させるのもおもしろいなと思っています。

 

 

 

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