やさい日記

複線的人生の創造

魯山人のいう人格 何必館京都現代美術館へ行ってきた

何必館京都現代美術館での「和の美を問う 北大路魯山人」を見てきました。私の中でたまに魯山人を欲するときがあります。魯山人は人気なのでちょうどいいタイミングで展覧会など開かれます。

 

 

 

この何必館の梶川芳友氏が産経新聞の夕刊に連載をされています。時に魯山人、他にも文化芸術について書かれているのですがこれがいつも私の心にささります。特に魯山人への深い思いが読んでいて心地いいのです。

 

 

 

私は22歳でお習字を習い始めました。そこから始まり少しずつ書という世界があることを知り、見たりまねたりして楽しみ始めました。そこから複線的人生を創造しようと日本史、短歌、禅と興味の幅を広げていって、最終的には茶とかもやってなんとなく完成形となっていって死ぬんだろうなあとおぼろげに感じています。

 

 

 

魯山人は書から芸術人生をスタートさせています。篆刻、刻字、絵、食、陶芸とその芸術人生を送りました。魯山人をみることはその複線的人生をみることでもあり、その根底に流れる一つの何か(西田幾多郎のいう「純粋経験」だと思う)に様々な感情を揺さぶられます。

 

 

 

魯山人をみると今自分が抱えているもやもやした感情が言語化されるのです。言語化することがいいのかどうかわかりませんが、その自分が抱えるぶよぶよした得体のしれないものが魯山人をみることでなぜか言語として区別されて意識に上ってくる。私目線での運命的な話をすれば、ぶよぶよした何かを抱えているときに、魯山人の企画がどこかである、といってもいいでしょう。

 

 

 

魯山人は生前傍若無人だ、傲岸だと批判をうけ、魯山人の前から去っていった人も多いと言われています。その一方で魯山人は書については結局人格以上のものはかけない、とも書いています。ここから魯山人のいう人格とは決して周りと協調したり仲良しこよしで生きていく優等生的な人格ではないことが分かります。

 

 

 

美を貫く。真剣に愚直に繊細で信念にいきている魯山人だから多種類の芸術においてやさしくも強さのある美を表現できるのだと思うのです。そして真剣でない、偽物の人生を送っている芯のぐらぐらした人間には、その魯山人の言葉や考えに拒否反応を示して去っていく。本物の人は魯山人を評価し、偽物の人は批判をするのだろう、と感じました。

 

 

 

梶川氏は展覧会のなかのキャプションで、今の優等生のような人から批判されないような生き方をよしとする時代に魯山人が示唆するところは大きいと、そのようなニュアンスを書かれていました。

 

 

 

魯山人がそこに並べられた書や陶芸を通じて、優等生的な生き方じゃないよ、もっと真剣に真の自己に向き合って裸の人生を送らないといけないよ、と教えてくれたような気がしました。これこそが魯山人のいう人格なのではないかと思っています。

 

 

偽物の個性を表現するのではなく、ほんものの自己を表現する書道を目指したいですね。いっしょに探して行きませんか!?

 

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