やさい日記

複線的人生の創造

若きリーダー・北条時宗が日本の独立を守り切ったことってすごいよね?

11月に歴史検定を受けようと思っていて、そろそろ日本史の学びなおしをぼちぼち進めています。昨日は元寇から鎌倉新仏教の問題を解いたので、その時に感じたことを書きたいと思います。

 

元寇モンゴル帝国・元が日本を侵略しようとした事件です。時の執政者は鎌倉幕府第8代執権・北条時宗。1251年に生まれで、幕府トップ(将軍は飾りなので執権がトップ)に18歳で就任します。時宗の父は5代執権・北条時頼。この時頼の時代に北条家の力が大きく伸びて安定し始めます。その息子である時宗はいわばサラブレッドだったわけですね。

 

元が最初に攻めてきた1274年。時宗は23歳、わずか23歳の若者が日本を背負い、日本の独立を守ったのです。私の大きな疑問の一つは、この若者がトップとして独立の危機に陥った日本を守り切れた理由はなんだったんだろう、ということです。

 

若干18歳の時宗が執権になったのは、英明な素質があったと同時に、北条得宗家の跡継ぎだったという背景もあるでしょう。父・時頼の時代に北条家の力が安定したという背景があったとしても、周りをみたら優秀な有力御家人もいたのでしょう。

 

その人たちの協議のなかで時宗がリーダーシップをとって、自らの意志【元が攻めてきたら打ち破るのみ】を発揮するというのは、簡単なことではないと思うのです。元が攻めてくるよりもむしろ幕府内御家人の総意をまとめることは難しいのではないかというくらいです。『なんだこの若造』なんて思う御家人だっていないとも限りません。

 

しかしやはり国難のレベルの大きさでしょうか。それとも23歳の時宗の胆力、リーダーシップが並外れたものだったのでしょうか。それ以外にも時宗を支える有力者・ブレーンの存在は見逃せません。

 

そのブレーンが有力御家人や朝廷をうまく裏からまとめ上げたのだと想像ができます。その動きがないと若い時宗がいくら【元が攻めてきたら立ち向かう!】と息巻いても実現をみることはできないでしょう。

 

そのブレーンとなったのは、当時南宋から渡来した禅僧だったのではないかと思うのです。父・時頼が帰依していた蘭渓道隆。第一次の文永の役と第二次の弘安の役の間、1278年に蘭渓道隆は亡くなります。蘭渓道隆は時頼の息子である時宗を幼少のころから見ていたことでしょう。父・時頼は道隆に時宗の指導も依頼したことでしょう。そして時宗も道隆を頼りにしたでしょう。

 

蘭渓道隆南宋出身というのも見逃せません。元は南宋を滅ぼそうとし朝鮮の高麗を攻めて属国にしていました。南宋蘭渓道隆としたら元の恐るべき性質を身をもって知っていたことでしょう、そしてそれを時宗にも伝えていたでしょう。属国になってしまった高麗をみて、ここで立ち向かわないと高麗の二の舞になるでしょうとも言ったことでしょう。

 

高麗のような属国になる未来か、独立を維持できる未来か。当然独立のために戦うということになったのでしょう。若い時宗を旗頭に一致団結できた理由は日本国が滅びてしまうのではないかという大きな危機感。大きな危機感があればリーダーが若かろうが国はまとまるのですね。

 

時宗は生命を元寇対策にすり減らしたのかわずか30歳で命を落とします。まさに日本の独立を守るために生まれた太く短い一生でした。時宗の功績をもっと語り継いでいく必要がありますよね。時宗がいなかったら日本はどうなっていたのでしょうか。

 

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