山口周さんのvoicyを聴いていて面白いなと思った話題がありました。お金を生み出すのは人的資本ではなく社会資本というもの。
経営者がなんであんなに報酬もらってんの?能力そんな高く思えない!なんていう居酒屋チックの悪口ってだいたいのサラリーマンが聞いた事あるかと思います。
でも経営者とサラリーマンで報酬の差がおおきくても、能力の差とイコールではないですよって。じゃあ何が報酬の差を分けているのか?それが能力や才能といった人的資本ではなく、社会資本、すなわちどれだけ社会において信頼をされて認められているか、だということです。知名度とも言えるかもしれません。
例えば家電を買う時、中身の能力や性能ってもちろん最低限はみますが、そこまでですよね。あとはなんとなくソニーが好きとか、日立で友達が働いているから日立で買おう、なんていうことで選んだりしています。
結局知名度、ブランド、信用で決めているわけです。これと同じように人間自身の金融資本は人的資本よりも社会資本によって決定されるという話です。
これを聴いて書にもあてはまるよなって思ったんです。書の世界にはとてつもなく技術の高い、古典を踏破して自己の書の世界観を打ち立てているすばらしい書家の先生方がいらっしゃいます。でもみなさんそんな先生の名前を一人でも言えるでしょうか?
武田双雲さんってみなさんも聞いたことありますよね?双雲さん、正直、書の世界でいうと、ヘタです。全然上手じゃないです。古典の研究もたぶんそんなにされてないんじゃないかな。
でも知名度はあるんです。社会資本をしっかり蓄えて、多くのファンがいるわけです。もちろん金融資本もたくさん得ていらっしゃるでしょう。
双雲さんは書のスキル、いわゆる人的資本の構築とは別視点で自分で戦略を立てて、世の中に発信をしてファンをつかんだわけです。人的資本の高い書家と正直書の人的資本の高くない双雲さんの違いは、自分自身をどうデザインするか、どういう方向に未来をみていたのかの違いだと思うんです。
社会資本を高めようとした双雲さんと、人的資本を高めようとした書家の先生方の違いは、そうやって金融資本の違いにもなっていったわけです。双雲さんの社会へのインパクトは正直書の大家より一般には大きいですよね。
社会資本をみすえず、人的資本の追求をすることがダメというわけではないですよ。人的資本を追求して社会資本を追求しなかった人が、双雲さんを批判することは無意味だよってこと。そもそも視点が違っているんだから。どっちがいいかは、自分がどっちを目指すのかの違いなだけです。
さあ私はどこから来て、どこへ向かうのか。自分をどうデザインするのか。そんなことを考えた山口周さんのvoicyでした。