やさい日記

複線的人生の創造

学ぶ人によって学び方が変わる 王義之【蘭亭序】の深み

古典研究会の話。午前は王義之の話、蘭亭序の話を興味深く聞きました。王義之や蘭亭序の話となるとそれこそ膨大になってしまうらしく、研究会ではコンパクトにまとめて教えていただきました。

 

王義之=スーパースター=書聖というスライドがあり、妙におもしろかったです。高校生には書のスーパースターだといったほうがインパクトありますよね。そっか、スーパースターなんだ!ってすごくわかりやすい。

 

で、このスーパースターだから書聖と呼ばれるという流れになります。すごく覚えやすいですね。王義之は書聖ですでは記憶に残らない。でもそこにスーパースターというキャッチな言葉をはさむことで、強烈に印象に残ります。

 

王義之はその生涯がやや謎につつまれています。そりゃ4世紀の人ですから。日本でいえばヤマト王権が確立したころ。10代崇神天皇から12代景行天皇の頃かと思われます。そりゃわからないことが多い方が自然です。

 

「王義之って日本でいう聖徳太子みたいな存在かもしれません。」と先生。おお、それもわかりやすい!と妙に納得してしまいました。聖徳太子も伝説のような話も多いですよね。10人の話をいっぺんに聞いたとか、キリストのように馬屋で誕生したとか。

 

王義之を謎めかせている大きな原因の一つが、王義之の直筆はこの世に存在しないからです。おもしろいですよね。直筆が存在しないのに書のスーパースターって。王義之の書を愛しすぎた唐の皇帝・太宗が王義之の書を自分のお墓にいれてしまったからなんです。

 

その代わり太宗は自分が墓にいれてしまうために、せっせとコピーを取るように指示を出しました。そのコピーがたくさん残っているため、王義之の書が伝説として残ったということです。今のコピー機じゃないですよ。王義之の書の上に薄い透けた紙を敷いて写し取るという作業をさせたのです。太宗のおかげでたくさんのコピーが作られたから王義之の書が残ったともいえるかと。なるほど~。おもしろい。

 

高校の教科書でも必ずカラー見開きで載っているくらい、書を学ぶ人はかならずまず通る行書としての蘭亭序ですが、学ぶ人の段階によって学び方も変わるんですという説明もとても興味深かったです。

 

それくらい奥が深いということ。学び始めて間もない人でも学ぶことが出来るけれども、そこそこ学んだ人でもまだまだ学ぶべき点がたくさんあるというわけですね。まさに骨太のテキスト。そもそも書の名品、例えば王義之よりあとの書家、例えば日本では空海弘法大師は必ず王義之を学んだわけですから、どんな名品も源流は王義之になるわけです。

 

実際に午後からの実技でもそれを実感しました。色んな先生に指導をしていただいたのですが、やっぱり自分一人ではとらえきれていなかった点がたくさんあるんですよね。私は22歳で書道を始めたのですが、習い始めて間もないころに当時の先生から「蘭亭序を臨書していきましょう」と言われて取り組んていました。

 

その後も何度か臨書をしては指導いただいたのですが、全然わかっていないし到達していない。まさに学ぶ人によって学び方が変わると、半切臨書作品をかいていて身に沁みました。

 

もっと年をとって一冊だけ書のテキストを残してあとは処分するとすれば、蘭亭序だけを残すかな、なんて思ったりしました。いや大好きな空海の風信帖にするかな?