やさい日記

複線的人生の創造

【古墳部 娯三堂古墳(池田市)】五月山山麓の古墳時代 衰退する勢力

さて昨日の続きです。池田茶臼山古墳の眺望にうっとりしながら、夕方になってきたので次の目的地へと行くことにしました。

 

娯三堂古墳。小学校の近くをとおり少し大きな道にでて五月山緑地都市緑化植物園のなかを通ります。時間があったら植物園も見たかったのですが残念。

 

横目に植物園をみながら橋を渡るとすぐ着きました。こんもりとした森のような感じで遊歩道がついているのであがってみました。少しきつい坂になっています。

 

木々が生い茂っているので薄暗い印象ですが、それでも墳丘はしっかりと開かれていて、古墳だった様子をしのぶことができました。木製のベンチが置いてあったのですが、ちょっと湿っていて朽ちていたので座るのをやめました。古墳は座って眺めるのが一番楽しいんですけどね。

 

4世紀末の円墳です。古墳時代の前期の終わりのほうですね。池田茶臼山古墳よりもあとの時代です。葺石や埴輪は見つかっていないことから、池田茶臼山古墳よりも簡略化されてつくられていて、ちょっと勢力が衰えてきているのかという推測がされるそうです。こののち池田地区ではしばらく古墳が築造されないことからもそれがうかがえます。

 

池田茶臼山古墳の被葬者から50年後くらいでしょうか。そしてその後は古墳が作られないとなると、この池田地域の勢力は3代100年くらいだったのでしょうか。そう思うと切なさを感じます。

 

なお池田から西に行った長尾山地域もこの時期からしばらく古墳が作られなくなります。それはヤマト王権の古墳が奈良盆地南東部から古市古墳群へと移行していく時期と重なっています。15代応神天皇陵、16代仁徳天皇陵などで、河内王朝と呼ばれたりもするようです。応神帝は王朝交代だったのか?などの説もあるようですが、本当のことはわからないですね。

 

それでもヤマト王権の移り変わりと、五月山・長尾山の地域の衰退が重なることは、なにかしら影響があったと思ってもいいでしょうね。この後長尾山流域の古墳は、豊中台地の桜塚古墳群の東群に出現していきます。応神・仁徳の河内とのかかわりが推測されるグループのようです。またこのあたりは今後の古墳部の活動で書いていきますね。

 

話を戻します。娯三堂古墳の帰り道、池田城跡公園で能の公園が夜行われるようで、多くの人が集まっていました。当日券が販売されていたので見て帰ろうかと思ったのですが、終演が20時だったので諦めました。能は一度もみたことがないのですが、いつか見たいなと思っています。

 

古墳部の活動はここまでです。次の古墳部はキトラ古墳の壁画公開に行ってきますね!