書道のくすのき 素の日記

川西市で書道教室やっています(お待ちしています)

地蔵とリビドー

友人に誘われて映画を観てきました。地蔵とリビドー。正直、上映後、言葉が出ませんでした。滋賀県にあるやまなみ工房という作業所で、アートを産み出している人たちの、ドキュメント。ただ、ひたすら、それをしたいから、没頭して創作活動をしている人たち。言葉にならないのですが、あえて言葉にしてみようとするならば、対価がどう、評価がどうとか、そういうことではない。ヒトとしての本質をむき出しに表しているのかと思うのです。それを個性という言葉で当てはめられるのかわからないのですが。

 

本質の本質、それを深めていくと、愛になるのかもしれません。クサイこと言ってますね笑 でも、対象に対する深い深い思い、心のそこから沸き上がってくる強い思いって、それも愛なのかと思うのです。その愛の深さがもろに表現されるとき、アートとして何かが生まれるのかもしれません。一見自己中心的な生き方であったとしても、愛が深ければ、自己中心的な生き方から脱却出来るはず。ああ、私の生き方は常に自己中心的で、愛が足りない。ということは私の書には愛が足りなくて、アートたりえない。(じゃあどうする?)というのはわからない。そんなことを感じたわけです。

 

数学者である岡潔の「春宵十話」を読んでいます。数学も突き詰めると思想であり、哲学になるのでしょうが、自然に根差した情緒が人間の中心にあるべきだと語っています。そのなかで、他人が悲しいと思うと、自分も悲しいと思う、それが愛だというような記述がありました。確かに、他人の悲しみが自分のものになってしまう人間が愛があり、感情が深く、豊かな情緒を育んできたのだと言えるのだと思うのです。そんな人間が生み出す創作こそが本当のアートであるのかもしれません。魯山人のいう、書は人格だ、人だ、というのも、究極、その人に愛があるか。人の悲しみに悲しいと思えるのか。そういう人格を作り上げた人の作る書が能書なんだ、ということなのかと、自分なりに感じたのです。

 

私はきっと、「他人に嫌われないような生き方」をしてきて、「いい人」もどきで生きてきたんだと思う。それでやれた。でも、私のなかに他者への「愛」は生まれていなかった。いや、薄かった。嫌われないように、衝突しないようにするからこそ、実は自分の殻に閉じこもっているだけで、線を引いて生きていたのだと思います。うわっつらだけのいい人もどき、そんなものは意味がない。『今の私の書はアートたりえない。心の底から愛が湧き出て、そんな書が書ける自分になりたい』と思ったのです。だから愛を生産するには、まずは自分自身、余裕を持つことが必要ではないか…体を整え、心を整えなければ始まらないだろうと、昨日は21時頃と早く寝ました。息子にも、「最近は食べる、寝る、食べる、寝るやなぁ」と言われてしまいました。まぁ、難しいことをこんな風にこねくり回して考えると疲れるので、眠るしかないわけです。夜が明けたら、朝には変身しているかもしれない。そんな期待も込めて。朝になって生まれたのは、猛烈体の痛みだけでしたが笑 (寝すぎると、首や肩が痛いのですが、年のせいなのでしょうか?体が重いからでしょうか?)

 

愛を生産しよう。生み出せるか?自分。