くすのき書道教室ー兵庫県川西市ー

墨の香りx木の香り/ひとりひとりを丁寧に、少人数の書道教室

親鸞弟子一人も持たず候。

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日本語って言葉の裏側に微妙なニュアンスが含まれていて面白いですよね。使う人の感情が透けて見えたりするわけで。

 

書道界ではこの「師匠」「弟子」という表現がよくつかわれます。「師匠はどなたですか?」「私の師匠は〇〇先生です」「△△さんは〇〇先生のお弟子さんだって」とか。

 

師匠の家に住み込みをして、家や教室の雑巾がけをしてカバン持ちをする。そうやって書を学ぶとともに師匠の背中を見て生き様を学ぶ弟子。

 

これが私がイメージする「師匠」と「弟子」。

 

今の書道界でも住み込みでカバン持ちしてとかあるんでしょうかね~?それを乗り越えられて書家として活躍されている方には尊敬します。いやまじで。私はムリだな~。たぶん1日にで逃げ出します。

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私も書を教えていただいた先生がいらっしゃいます。現在も教えていただいています。でも『住み込みでカバン持ちしていないし、週1回程度教えてもらっているだけなのに、先生を『師匠』って表現するのはおこがましいよなあ~』って思うんですよね。

 

それと同時に『いやあ、私は弟子なんて自分を呼べるほどのもんでもないしな~』なんていうことも思うのです。

 

師匠や弟子という言葉を使うときって、『私は高名な〇〇先生に師事をした、正統な△△という弟子である!』っていう気持ちがにじみ出ちゃう気がして、私には恥ずかしくてムリ!

 

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親鸞の言葉をまとめた「歎異抄」。司馬遼太郎は兵役中にポケットにしのばせて読んでいたそうです。

 

 

その中で親鸞はこんなことを話しています。

 

親鸞弟子一人も持たず候

 

親鸞の思想からすると、親鸞であれ誰であれすべての人間にとってアミダさんのみがお師匠さんであり、すべての人間がアミダさんの弟子なのです。だから親鸞には弟子がいない、ということになるわけです。

 

この一言をとっても親鸞のすごさが分かりますよね、実際はとほうもない多くの坊さんに取り囲まれていたでしょうに。

 

アドラーも、幸せになるためには人間は上下関係ではなく横のつながりが大切だよって言っていたように覚えています。

 

 

私の教室に来ていただく皆さん、これから来ていただく皆さんも、私と同じく「書」というそのだだっぴろい大地によちよち歩いていくわけです。その書というワールドをより楽しめるように、その人のペースに合わせて、私は一緒に手をひいていくのみ・・です。(実際に手をつないでやるわけではないですよ、念のため)

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要するに堅苦しくなく、一緒にみなさん書道を学びませんか・・・というお誘いです。

 

ずばりいうと、今日は単なる宣伝!みなさん、よろしく!!

 

kusushodo.hatenablog.com

 

いちじくのおいしい季節~